心理カウンセラー認定試験(第5期) 受講者の発表8

「ダンナ恐怖症だった私が強くなれたわけ〜自分軸で生きていいんだ〜」

 

発表の前に、病気のため、ろれつがうまく回らないことがあり、おきき苦しい所があるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

それでは、発表を始めます。

 

みなさん、こんにちは!

突然ですが、一緒に手遊びをしませんか?

 ♪幸せなら手を叩こう

 ありがとうございました!

 私はこの歌詞にある、「幸せなら態度で示そうよ、ほらみんなで手を叩こう」

というところがとても好きなんです。

「幸せ」を「みんなで共有して、手を叩いて喜び合おう」

結婚って、家族って、そういうものだと思っていました。

 

今日は、私の人生の約半分をしめている、「結婚生活」についてのお話を聞いてください。

 

まず、自己紹介をします。

私の名前は、中島 愉香といいます。

年齢は54歳。来週の24日で55歳になります。仕事は保育士です。

 

今では、5年前に開園した「ももか保育園」で主任業務をまかされ、かわいい子どもたちやちょっと濃い目の同僚達、様々な保護者さん達に振り回されながらも、楽しくお仕事をしています。

 

家族はというと、専門学校で女子ソフトボールの監督をしている同い年の夫、養護学校に勤める私と同じ誕生日の長男は、来週26歳になります。

そして、組合員のおばあちゃんたちのアイドルで、生協の配達員で元甲子園ボーイの次男20歳、それから、推し活に一生懸命の高校2年生の娘、猫のらむねちゃん、という5人と1匹です。

 

私は、ここ、中津川で生まれ育ち、結婚を機に滋賀県の草津市に移住しました。

実は、半年前、脳梗塞で倒れました。職場である保育園で、園長先生の目の前で倒れたので、すぐに救急車やドクターカーを呼んでくれて、近くの大きな病院に運ばれて、一命を取りとめました。

ドクターカーの中では、挿管が必要になるくらい容体が悪化したらしく、もし発症したのが自宅や、車で・・・と考えると、今日この場にはいなかったかもしれません。

しかし、滋賀県では4例目と言われた珍しいタイプの脳梗塞でしたが、その手術に対応できる先生がおられた事など、本当に偶然が重なって、今では、少しろれつがまわらない言語障害と、手がここまでしか痛くて上がらないまひが残っていますが、その他はほぼ後遺症も残らず「奇跡の復活」をとげることができて、本当によかったなあ~~と思っています。

 

そして、最後に聖飢魔Ⅱと大黒摩季が大好き!ということで、現在、聖飢魔Ⅱ地球デビュー40週年の大黒ミサツアーが行われていて、先月は京都に参拝してきました!まだまだ、大阪や名古屋のミサも楽しみしています!

そんな、わたしの悩み・・・というか、私の結婚生活の「全て」は、これでした。

 

「ダンナが怖い」

怖いんですよ。うちのだんな。いわゆる、「モラハラ」ってやつですね。

でも、私は、「がまんするしかない」と思っていたんです。

 

その1 

仕事から帰ると、背を向けたまま腕組み

「ただいまと」声をかけても返事はなし

 

なんですか?この雰囲気?こっちも仕事して帰って来とんじゃい!

私のほうが毎日早く帰って来て、ご飯作って、三つ指ついて出迎えろってかい?

シフトもあるんじゃ!あほか!・・・と心の中で叫びつつ、恐る恐る「ご飯、何かある?」と聞くと、「どうするつもりやったんや!」と怒鳴る。

「いや、なければ何か作るし・・・」というと、「わしが食うものしか作ってへんぞ。それ食えや。」「・・・あ、ありがとう・・・」ってな感じ。

毎日、毎日。結局作ってくれてるんです。・・・美味しくないけど。

 

シフトが早出で早く帰れる時も、「買い物行って帰ります」「何かいる?」と、ラインで連絡を入れます。返事は無しか、グッドマーク。??何かいるって聞いてるよね??

仕方がないから、直に電話すると、「何もないぞ!どうすんねん!」と、また怒鳴る。

「だから、買い物に行くって連絡してるじゃん!」と、また「心の中で」叫ぶ。

それでも、結局、自分も買い物に行ってて、案の定、お刺身とか、お肉とか野菜系がかぶる…

時間も、お金ももったいないって思わないのか?って、イライラ・・・

 

その2

ダンナはゲームが嫌い 

私はゲーム好き

 

山梨に行った時のこと

私がスマホを触っていたのが気に入らず、身延山では別行動に。

そのまま無言で滋賀まで・・・約5時間の「なんじゃこりゃ?」の旅

 

家族の紹介のところでもちょっとだけ触れましたが、次男君が、山梨の日本航空高校に行ってました。

2年生の時に、ベンチ入りして、ピッチャーとして甲子園に行ったんですね!

その次男君の試合の応援に山梨まで行った帰りの話です。

 

実は、私の実家が日蓮宗で、身延山が総本山であったことから、お参りをしたいと行くことにしたんですけど。

やらかしたんですかね、私が。

車の中でちょっとゲームをしてたのを見つかり、途端にあからさまに機嫌が悪くなりまして。

身延山には行ったことは行ったんですが、別行動。

私も腹が立ってたので、わざとゆっくりいろんなところを見たりして。

どこにも姿が見当たらないので車に行くと、ふてくされた顔で車にいました。

そして、食事もトイレ休憩も取らず、一言も話さず滋賀に戻ってきたのでした。

途中で降りるわけにもいかず、本当に、「なんじゃこりゃ」の地獄のような5時間でした。

 

その他にも、あげればきりがないほど・・・

  テレビ(野球や大河ドラマ)の途中で話しかけると怒る。

  歌番組など、私の見たいテレビをわざと変える。

  水割りの時の「氷」、取り皿が欲しければ「皿」と単語で命令。

  自分の思うように話が進まないと、会話にならない。

  何かにつけて、「当たり前やと思うなよ!」と言う。

・・・・などなど

       

一度、機嫌のいい時に「なんでそんなことをいうの?」と聞いてみました。

すると、夫曰く、「愛情の裏返しじゃ!」と言ったのです。

 

・・・は? 裏返しの愛情って、なんやねん!!!!

 

みなさんは、なんだと思います?

 

そんな裏返しに愛情に縛られて、不満に思いながら、でも、「どうすることもできない。これが結婚なんだ。」と思いこんでいました。

 

そんな風に思い込んでいたのには、母からの

「お嫁に行くっていうことは、女中働きに行くもんやと思って行きんさい」

「離婚して戻ってくるなんてなんて恥ずかしい」

という言葉がすりこまれていたからでした。

今となっては時代も違うし、「いつでも帰っておいで~」と軽い感じで言ってくれていますが、やっぱりすりこみって怖いんですね。

 

心理学との出会い

私と心理学との出会いは、妹です。

実は、私の妹は、ととのえの代表 吉田奈美です。

その頃の私は、整理収納で起業や、心理学講座??

「また、奈美がおかしなことを始めたぞ?」と思っていました。

片付けの苦手な私は、整理収納にも、興味がないこともないが、滋賀は遠いし、まさかこっちまで飛び火はしないやろうと、できるだけ距離を置こうとしていました。

 

でも、猪突猛進、やるといったら、とことんやるタイプの妹に、「練習台になって!」と言われ、

押しに弱い姉は、「おかたずけ」をお願いし、「性格診断」のグラフをとってもらうことになりました。

 

そして、その時とってもらったグラフがこれです。

 

「おねえちゃん、ほんとによく我慢しとるねえ~!

 私やったら、こんな生活、耐えれんよ!離婚しり!!離婚!!」

性格診断のグラフを見て、第一声がこれでした。

「こんなグラフで、何がわかる?」

「でも、私の性格とか、言っとることは、当たっとる・・・」

「・・・こわい・・・」

興味を抱きつつも、また妹と距離を置こうとしたのでした。

 

そんな、どちらかというと妹のしていることに否定的だった私が、とうとうたどり着きました。

 

「心理学ってすごい・・・かも」

 

私がこんな風に思えたのは、妹家族の変化でした。

何かある毎に、「もう、死にたい・・・」「長男を殺して、私も死ぬ!」

と電話をかけてきた妹・・・私は、話を聞いてあげることしかできませんでした。

そんな妹が、子どもたちを無償の愛で包み始めたんです!

そのおかげなのか、妹家族に笑顔が戻ってきた事を感じました。

 

「心理学を勉強したおかげで、今、幸せやよ!」と、嬉しそうな妹。

「心理学って、すごいのかも?!」と、私の心にも、心理学への興味がまた、湧いてきたのです。

 

そして、「おねえちゃんも心理学勉強したらいいのに~」と、何度も誘ってくれたんですが、

「遠いし」

「心理学勉強したいなんて、ダンナに言えん・・・」

と、またやらない理由を作っては逃げていました。

 

しかし・・・

 

滋賀講座開講

「お姉ちゃん、草津で講座やるでよ!」

3年半前、妹から連絡が来ました。

 

きっと、にえきらない私の背中を押してくれるつもりだったんでしょう。

 

でも、まだこの期に及んで躊躇する私がいました。

 

とりあえず、講演会の託児スタッフとして参加し、その後中村智恵美先生にカウンセリングをしてもらいました。

 

なんだかんだいっても、「やっぱり私には必要なものだ」だと、カウンセリングを受けた時には、本当は自分を変えたくて、変わりたくて最初から受講すると決めていた私がいました。

 

実践心理学講座や心理カウンセラー養成講座では、「自分と向き合う」ということが、たくさんありました。

 

そして、なぜダンナは、あのような態度をとるのか、私の話を聞こうとしないのか・・・私の提案を、必ず否定するのか・・・と、考えながら講座を受ける中で、気づいたことがありました。

 

「期待とファンタジー」と「イネイブラー」です。

 

「期待とファンタジー」とは、言わなくてもわかってくれるはず、できるはず、尊重されるはず、思ってくれるはずと、相手に期待して夢を見ている状態のことを言います。

 

こんなことがありました。

次男が高校を卒業し、家族で旅行に行った時のことです。

ホテルは、私の職場の福利厚生でカニの食べ放題、アルコール飲み放題付きのバイキングがついて、一人1泊8900円という格安プランを利用し、長野県の安曇野を中心に計画を立てました。

 

行先については、子どもたちに聞くと「どこでもいいで~」というので、長野といえば善光寺、それからメンズたちの好きな戦国武将、真田幸村にゆかりのある上田城や松本城にいき、お嬢のためにいちご狩りまで盛り込んで・・・と、「私が」予定を立てたのです。

 

私としては、予定を立てるところからがもう旅行の始まりで、ウキウキしながらあそこに行こうかな、どこに行こうかな、てな感じなんですね。

なので、「やっぱり、こっちをやめて、あっちにしようか?」と提案すると、「決まったんちゃうんか!!」と、また怒鳴られるわけです。

そうなると、また怖くて何も言えなくて・・・。

でも、「え~!一生懸命、考えてるのに!」と不満でした・・・。

 

私は、「旅行、楽しみ!みんなで行先も決めて、楽しもう!予約とかいらないなら、直前でも楽しいほうに変更してもOK!」と、家族みんなが思っている・・・と夢を見ていたんです。

 

でも、ダンナは、そうじゃなかったんですね。ダンナはダンナで、私に対して「予定変更のない、揺るがないプランニング」という期待とファンタジーを抱いていたのです。

 

怒っているダンナに「どうして怒ってるの?何で怒っているか分からないから、教えてほしい」と聞くと、よく言うのが、「わからんのけ?自分で考えよ!」です。

何で怒ってるかわからないから聞いてるのに、教えてくれなくて、また同じ地雷を踏むはめになる、と本当にかみ合わないんです。

 

心理学を勉強して、我が家は期待とファンタジーにあふれた家なのだという気付くことができました。そして、私のかかわり方を変えることで、少しずつ私自身が「相手に期待しないこと」ができるようになりました。例えば、買ってきたおかずがかぶっても、「明日は買い物に行かなくてもいいじゃん」と考えられるようになり、ずいぶんと気持ちが楽になりました。

 

そして、もう一つ、私は生粋のイネイブラーだと気づきました。

 

イネイブラーとは、身近な人(家族)を心配して、良かれと思って行うことが裏目に出て、逆に相手の問題行動を助長してしまう人のことを言います。

 

例えば、私の場合、「皿」「氷」と言われ、当たり前のようにいそいそと用意をしてしまいます。

普通だったら、自分が使いたいなら自分が用意して当たり前、用意してもらったんなら、「ありがとう」とお礼を言って当たり前ですよね。

それが、腕組みをして偉そうにふんぞり返っているダンナの姿が当たり前の我が家の姿でした。

 

そんなふうにダンナをしてしまったのは、母の姿を見て育った私のせいだったかもしれません。

母は、何もしない父や弟の世話をし、家事をし、店をし・・・と、寝る間も削って働いていました。

温かいものは温かく、と食事の用意が出来てから父や弟を呼び、ご飯をよそい、おかずを出して、お茶の支度をして・・・というように父や弟が食べている間も自分は座らず、世話をしていたのです。

母に聞くと、それは母の母、つまり私のおばあちゃんの姿だったのです。

 

アダルトチルドレンの父は、母が買い物に出かけても「遅い。どこまで行ったんだ」としょっちゅう言っていました外から見れば、妻のことを心配している、妻思いのよい夫に見えますが、まさに依存していたんですね。

 

私も、この「イネイブラー」という言葉の意味を知り、まさに自分のことだと実感しています。

今でも、この習慣は抜けきれていません。

でも、妹に「気づくことが大事なんやよ。お姉ちゃんは、自分で気づくことができたんやで、そこが大事」と言ってもらい、今はイネイブラーにならないよう、支えすぎないよう、と思いながら生活しています。

 

この2つの気づき、そして妹の後押しもあって、私は別居を前提に家族会議をすることにしました。

 

でも、私にとって、家族会議は恐怖でした。私の意見なんか、通るはずがないと、思っていました。

結局、私が、ダンナに罵られて終わりなんだと思っていました。

 

そこで、私のやったことは、出来ないことを出来ないと言う事と、子供たちを味方につける事。

 

全てを背負ってしまう事で生存確認をしていたイネイブラーの私にとっては「出来ない」と言う事は、自分が家族に必要だと認められないと感じてしまい、とてもハードルが高いことでした。

 

例えば、確定申告では私が仕事を休んで税務署に行ったり、年末調整の書類の記入、子どもの大学進学の時には教育ローンの手続きのために銀行との日程調整や住民票などの書類の準備など、ダンナ名義の様々なことをしてしまったのでした。

 

こうやって、私は出来ない事を出来ないと言えず、「何とか」してしまっていたのです。

 

ある日、「アホかって言われるなら、『わたしアホやし、やって~』っていえばいいんやに」と、また妹から目からうろこのお言葉が・・!

 

「え?いや、私にできんもんが、ダンナにできるわけないやん」と言う私。

「でも、お姉ちゃんもしんどいんやら?じゃあ、もう出来ん。あんたのことなんやで自分で

やってって、丸投げすりゃあいいじゃん。お義兄さんの問題なんやで。

お姉ちゃんは、何でもかんでもやっちゃいすぎなんやて」と妹。

さらに、「その姿をみとるもんで、子ども達もお母さんはアゴで使っていいんやって勘違いしとるんやに」と。

 

本当にその通りで、子ども達も食事の時はどっかりと座り込んで、「おかあ、醬油とって」「ご飯おかわり」と言い、私は食べる手を止めて対応するいう感じでした。

 

そこで、私は、妹と共に家族会議の前に子供たちに集まってもらって、話し合いをしました。

別居を考えていること、ガソリン代やスマホ代など、自分たちの生活にかかわるお金は、自分たちで支払う事。

そうなんです、長男も、次男も、しっかり働いてお給料を頂いているにもかかわらず、イネイブラーの母は、ガソリン代やスマホ代などもカードを渡して払い続けていたのです。

そのおかげで、コンビニでカードを使ったり、スマホのゲームに課金をしたり・・・と、むちゃくちゃでした。

そのお金も、それぞれに請求することを伝えました。

そして、家族会議でお父さんが暴走しそうになったら、冷静に話をしてくれること。

特に、長男には、話がちゃんと前に進むようにアシストをお願いしました。

 

そして、家族会議はというと・・・お金の話やダンナの態度の話を中心に行いました。

「出来ないから、やって欲しい。手伝ってほしい」というスタンスで。

苦虫をかみつぶしたような表情で黙り込むダンナに、長男も

「何も言わんかったら、話が進まんし、今まで我慢しとったお母さんの気持ちを大事にしてやってほしい」

「怒鳴ったら、お母さんが怖がるだけ。叱るのはいいけど、無駄に怒ったり怒鳴ったりはするな」

と、ちゃんとアシストをしてくれました。

 

私一人を相手にするわけではないというシチュエーションに何かを感じ取ったのか、拍子抜けするくらい、聞き分けのいいダンナだったんです。

そのおかげで、別居したいとは言い出せず、しばらくは様子を見ることにしました。

 

今回の家族会議で、心理学で学んだことを勇気を出して実践した結果、「家族を頼る」そして「自分軸で行きていいんだ」という大きな学びを得ることができました。

 

家族会議をした約1か月半後、先ほどもお話ししましたが、私が脳梗塞で倒れました。

長男が夫や両親や妹に連絡をしてくれたそうです。

妹に連絡した時には、長男も、プライベートで相談に乗ってもらっていたこともあり、それまで気丈に色々と連絡をしていた長男も「よく頑張って連絡してくれたね」という妹の声を聴き、堰を切ったように号泣していたそうです。

その話を聞いた時、本当に長男に感謝するとともに、長男をねぎらってくれた妹にも感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

入院生活は、回復期が約3週間、その後リハビリ病院に転院して約1か月と長いものでした。

 

そんな中、家事はほぼ全てダンナがやってくれていました。

転院して少したった時、ダンナが、「しんどいわ・・・」とポロっと言ったのです。

以前から、洗濯や、洗い物などぶつぶつ言いながらも手伝ってくれるようになっていたのですが、毎日3人分のお弁当を作ったりと、やっぱり全部ひとりで・・・では、しんどいんでしょうね。

そこで、子ども達にラインをしました。

「お父さんに、全部負担をかけていませんか?珍しく、しんどいと言っていたので…。

洗濯やご飯、洗い物など、できるだけみんなで手分けして協力してください。

お父さんまで倒れたら大変やでね。お願いします。」

 

その後、ダンナに聞くと、みんながそれなりに自分のできる事や目についたことなどをやるようになったそうです。

 

退院した今はというと、子ども達は「自分のことは自分で」が少しずつ意識できるようになってきたように感じます。

自分で、ご飯をよそうとか、食べた後の茶碗を流しに持っていくとか・・・程度ですけどね。

 

そしてダンナはというと。

まず、怒鳴らなくなりました。

怒ることはあるけれど、私も委縮せず、「何が、どこが悪かった?」と聞けるようになりました。

「言い方や!」位の返事しかないことがほとんどですが、それでも「自分で考えろ!」よりは、進歩だと思えるようになり、深く気にしないようになりました。

それに、また同じことで怒られても、「どこが悪いか、ちゃんと教えてくれないから」って言えますもん。ウィンウィンです。

 

それから、電話で夜ご飯の相談ができるようになりました。自分が買ったものを教えてくれるようになったんです。すごい進歩だと思いませんか?

 

私がまだまだ後遺症があり、遠慮してくれている所もあるとは思いますが、とげとげしい態度が柔らかくなったのが感じられて、私も委縮せず優しい態度が取れているおかげで、雰囲気がよくなり、あまり考えすぎずに何気ない会話ができるようになりました。

 

こうして、ダンナが怖くて怖くて恐怖症だった私は、妹を通して心理学に出会い、学び、実践したことで自分と向き合い、「自分軸で生きていいんだ」と確信できたのです。

 

一人一人がしっかりと自分軸があるからこそ、みんなで手を叩きあって幸せを共有できる、そんな家族になれたらいいな、と思います。

 

皆さんも、心理学を学んで、私のように何かに縛られた人生を手放して、自分軸を大切に、楽しい人生を手に入れませんか?

 

以上で発表を終わります。ご清聴ありがとうございました。