「60代『我が』まま人生 何が悪い!過去の後悔が私に教えてくれた、幸せになる一歩を踏みだせ!」
みなさん。
こんにちは。
恵那市在住のAと申します。
では よろしくお願いします。
過去の経歴はこちらです。
8回の引っ越し、家族で大移動でした。
皆さん、突然ですがパッと私を見られてどんな印象でしょうか?
何だかのほほーんとした顔をしている、、私はよく
「Aさんは悩みなんてないでしょう、ずっと順風満帆でしあわせでしょうね。」
と言われます
心の中では、なにもわかっていないんですね、と言いながら笑顔で返していました。
でも時には何でこの苦しみをわかってくれないの!と悲劇のヒロインを装って同情を誘おうとしましたが、
これまた自分自身を偽る行為でした。
そんな中、たった一人だけ私の心の真意を見抜いていた人物がいました。
それは中学生だった次男です。
ある日遊びに来ていた友達との会話が聞こえてきたんです。
「うちのお母さん、一見、顔は人畜無害だけど 性格は般若の顔そっくり」と
その時 私は
「はあ?よくいうわ」ととりあえず受け流しましたが
今振り返ってみると、いろいろなうっぷんをため込み、息子たちには感情のまま、キツイ口調で当たっていたのではないかと 思いました。
それでは 私の過去の経験と心理学を学んでからの気づき、行動の変化をお話したいと思います。
この写真まさに、般若の性格のころです
まずは私とととのえとの出会いです。
それは わたしがずっと抱え込んでいる強い負の感情はどこから来ているのか知ることでした。
自分では家族の幸せだけを願って精一杯やってきたはずなのになぜかいつも心が満たされない、私の思い描いていた愛ある家庭像とはまったくかけ離れ、いつもこれでいいのかと心身ともに疲れ果てて行ったのです。
私はいったい何をしているんだろうと、もがき自分を責めました。
そんな悶々としている自分が大っ嫌いでした。
そして私の人生の折り返し時間が過ぎてしまった、、、と実感したある日、今までの人生を振り返って、
「もうこんな辛い生き方は嫌!人生の最期は ありがとう!と言って終わらせたい。」
と強い感情がわいたのです。。
この苦しみを誰かに聞いて欲しい!わかってほしい!、、、
そんな思いの中ネットで中津川市のととのえを知り
「傾聴だけではなく 問題解決」というメッセージに惹かれまたカウンセラーの奈美さんご自身も生きづらさを経験され受け入れられてきたことを知り、迷わず尋ねました。
ゆっくりとした時間の中 私は初めてじぶんをさらけ出せました。
奈美さんは私の後悔話を否定せずあたたかく包んでくださいました。
その時話した後悔話の1つをお話ししますね。
私は中津川市へ来るのが辛く、できることならこの町へは足を運びたくない!という強い気持ちがありました。
もう20数年前のことになりますが、その日は家族と私の母を交えて中津川市内で会食をしました。
私は久しぶりに美味しいものを皆で食べ楽しい時間を過ごしたい、と心を弾ませていました。
しかしその時息子がとても気持ちが荒れていて 楽しいはずと描いていた夕食が一変し 私は思わず皆の前で息子に手を挙げてしまいました。
その後の会食はもちろん楽しいはずもなくやるせなく悲しい思いばかりがつのる夕食になってしまいました。
この時、本当に苦しんでいた“わかってほしい”という息子の心の叫びを私は受け止められず20数年間自分を責め続けてきました。
その状況が再び鮮明に蘇ることが恐く 中津川市を遠ざけてきたのです。
カウンセリングで奈美さんから
「反省と後悔は一度だけ」
そして
「その時はそれが私にとって精一杯だった」という肯定的なお言葉にスッと胸のつかえが下り、心の鎖をほどくことができました。
この言葉の力はなんだろう、、自宅へ帰る車中。本当に不思議なくらい気持ちが明るくなれたのです。
私がいきづらかったのは何故か、、なぜ自分のせいにばかりしてしまうのか、もっと自分を知るために心理学を学んでみよう!と決意したのです。
心理学を学んだ今の私がその時に戻れるのなら、息子をおもいっきり抱きしめて 苦しい気持ちに寄り添える気がします。
ちなみに先日、思い切って息子にこの出来事を話してみたんです。。
息子は「そんなのぜんぜん覚えとらんよ!」と一言、
自分が辛かったことや後悔していることは意外と相手は気にしていないものなんですね。
奈美さんと息子の言葉で私はずっともやもやしてきた感情に終了できました。
今は中津川市が大好きですよ。
ここで少し私が心身ともに疲れ果てる原因となった家庭生活の話をします。
思春期を迎え (後でお話しますが)父親に対して嫌悪感をもち、何も言わず父に従い耐えている母が見ていられず、また私とはまったく気の合わない義理姉が嫁いできて家に居づらくなった頃、主人と旅先の海で出会い いわゆる今で言うナンパですね。私は暑さでやられ 23歳で嫁ぎました。
もう実家に戻りたくない!私の帰る所はないと心に決め結婚後の新天地で自分の居場所を作ることで必死になったんです。
しかしその居場所づくりは結局、主人が機嫌よく暮らせる「良い妻」を必死で目指すための場所となってしまったのです。
嫁ぎ先が和歌山県ということもあり、知り合いもなく目の前は海、 環境もガラリと変わり 私が頼れるのは主人だけでした。
当初主人は穏やかな人でしたが、仕事も忙しく勤務先から帰らない日も多くたまの休みは一人で趣味の釣りに出かけてしまいます。 これも仕方ないと 寂しさも言いたいことも胸にしまい込み 家事を必死にこなし 主人にとっての理想の妻をめざすことが、家庭での私の役目だと思いこんでいました。
こうして一生懸命になっている姿を見てくれれば いつか私のがんばりをわかってくれるだろう と信じていました。
主人への強い承認欲求、わかってほしい、認めてほしいの始まりです。
心理学を学び、そもそもこの承認欲求 (自分が自分を認めるより誰かに認めてほしいが第一!)が強いのは、やはり子供の頃のあの寂しさから来ているのではないか、、と甘えの欲求の話を聞いたときはっきりわかりました。
では ここで甘えの欲求について説明したいと思います。
甘えの欲求には4通りあります。
わかってほしい
認めてほしい
かまってほしい
思い通りにしたい
私はこの4通りの中で主人に対して わかってほしい、認めてほしい が特に強くありました。
ではなぜ幼少期に自分がみたされなかったのかその話をします。
私が生まれて間もなく会社を立ち上げた両親は留守にすることが多く 祖母や親戚の人、近所の方々にお世話になっていました。
だだをこねたり わがままを言ったという記憶が私にはありません。
寂しさを感じることはもちろん、それ以上に両親に心配をかけてはいけない と母に聞いて欲しいこともそっと胸の中にしまい込みました。
ここで私にはどうしても忘れられない辛い出来事がありました、それは小学1年生、学校からもらう親に向けた持ち物の知らせの漢字が読めず、私は忘れ物が多く先生から何度となく注意されました。とても悲しく、今もその光景を覚ています。
けれども母にはその悲しみを伝えることができませんでした。
甘えてはいけない!と思いつづけていました・
私の育った家庭は 父の言うことがすべて正しい、父の期待、気持ちにそぐわなければ 出ていけ!といった 世界が父の言動と行動で回っている という家庭で 母への暴力も間近に見てきましたので、母にだけは心配をかけたくないという強い気持ちが幼心にあったんですね。
私がほめられるのをうれしそうに聞いている母の笑顔を見たとき 、
両親のために他人から褒められる良い子でいなければ、と確信した瞬間でした。
もうひとつ私には夢を見ることより、いい子でいなければいけないと確信した出来事がありました。
私は大人になったらやりたい!ことも密かにあったのです。。
それは 寂しい私の傍には犬がいて和ませてくれ、その想いが強かったのか小学校の社会見学で東山動物園での出来事、
「何か質問はありませんか」
と職員の方に聞かれ、私は思い切って手を挙げ
「私は動物が大好きです、ここで働くには どんな勉強をしたらいいですか?」
と尋ねました。すると微笑みながら
「ごめんね、ここは男の人しか働けない」
という返事に 私は思わず大泣きして皆を困らせ、同窓会では今も伝説になっています。 6歳でもう挫折を経験。挫折も人生において大切かもしれませんが、早すぎますよね
思い描いていたものは痛烈に出鼻をくじかれた、と思いこみ 私は夢を見るのをやめました。
自分の想いに蓋をして いつも他人から自分はどう見られているのかという承認欲求の中、生きるために取らざるをえなっかた 「いい子戦略」という生き方を続けるのです。。
では、ここからは私がめざしていた「良い妻」が見事に崩れていった話をします。
結婚後、 常に主人に対し甘えの欲求 わかってほしい、認めてほしいという承認欲求がどんどん強くなっていきました。
けれども優しかった主人が職場が変わるたび、プライドの高い主人は人間関係に悩み自分の描いていた理想の職場とは違いだんだんと心が不安定になり、そのはけ口を家庭に持ち込むようになりいつもイライラして不機嫌でした。
大声を出したり私に暴言、時には力で抑え込むようになり、その光景をいつも不安な気持ちで見ていた息子たちがそっと私の肩を叩いて
「おかあさん、3人でこの家を出よう、お父さん恐いから」
と言ったほど、息子たちに辛い衝撃を与えていたのです。
主人は自分の母親とまったく折り合いが悪く、世間体ばかりを気にする母親が大っ嫌いでした。この二人が対面すると必ず口げんかが始まります。母親から甘えの欲求をみたしてもらえず その欲求がぜんぶ私に向けられたのです。
何でも私なら受け入れてくれるだろう、と思って。
「自分の母親と似ている人とは、ぜったいに結婚したくない」主人が私によく言っていました。
主人の顔色ばかり伺う毎日でした。正直怯えていました。
けれども こんな現状でも家族にとってここが自分たちの居場所だと、家族4人で生活していくことが必ず幸福につながる、とにかく 『私さえ我慢すれば』 いつかわかってもらえるだろうと信じ、私の時間とエネルギーを主人に与え続けてきてしまったのです。
ここでも良かれと思ってやってきた事でしたが、心理学を学んだ時に私のやっていた事は期待とファンタジーだったということが、やっとわかりました。
*期待とファンタジー
いつかわかってくれると勝手に思い込み 言わなくて
もわかってくれるはずと相手に期待して夢を見ている。
95%期待はうらぎられる。
結局見捨てられ不安の強い私が、主人の機嫌が悪くならないよう、先回りして何でも行動してしまい主人の荒れた態度や理不尽な要求をもっとエスカレートさせ、息子たちには本当に辛い思いをさせてしまいました。ごめんね。
いつの間にか、嫌いだった何も言わず耐えてばかりの母と同じ道をたどっていたのかもしれませんね。
私が良かれと思ってたくさんがまんしてきたこと、みなさんにもこんな経験ありませんか?
*わたしの「私ががまんすれば」の例です。
・理不尽なことをきつくいわれても何も言わない、口をつぐむ。
・なんでも主人の決めたことが第一
・先回りしてご機嫌をとる
・息子たちが幼い頃にもかかわらず 朝は職場のパンは食べられないと言って夜勤中の主人に息子を連れてお弁当を届ける。
・私の預金をついつい出してしまった。
・義母の介護はすべて私任せ。
・私が遊びにでかけることはしない。家庭第一。
・楽しかった、面白かったというのは禁句。
等々
皆さん、これを見てどう思いますか?
今の私なら「よくぞここまでやってきたわ、あなた何考えていたのー」ともう本当に呆れてしまいます。
この最後の一行なんかは まったく人権侵害ですよね。
でも、これが正しいと思いこんで生きてきてしまったのです
こうした「自分ががまんすれば」の精神で与え続けた結果
やっと日の目を見ることが出来た!!
我慢してきて良かった!!と思えたものの、後にうつ病になってしまうほど愕然とする事件につながっていくのです。
それは主人と力を合わせて新しい事業を始めることでした。
何度となく職場が変わり、そのたびに家族で引っ越しを繰り返してきましたが、なかなか主人の心は満たされず
一大決心で 新しく事業を始めることにしました。
主人も「やりたい!」とはっきりと意思表示してくれましたので、わたしはその気持ちを信じ、思うように仕事をしてほしいという強い願いもあり夢と希望の一大決心をしたのです。
やっと二人で始められる!と、もちろん不安もありましたが、それ以上にとてもうれしく命がけでいろんな準備に取り組んでいきました。。必死でした。
そしていよいよスタッフの面接の日がきたのです。
当初3人の事務を募集しましたが、3人目がなかなか決まらず、その時手伝っていただいた業者の方から
「奥さんはあと一人どう思われます?」と聞かれ
私は「まずは二人に来ていただき、もう一人はゆっくりこれから探していったらどうでしょう」と答えました。
そこで先ほどお話した驚愕の一言がさく裂します。
主人が大声で「何だお前は第一線でやりたいとおもっているのか!そんなに前に出たいのか!」とすごい剣幕で皆さんの前で罵倒したのです。
それは以前私たちに業者の方がアドバイスした「奥さんが前に出ると職員はいやがってすぐに辞めますよ」という一般論を主人はまともに受け取り、私にその言葉をぶつけたのです。
私は崖から突き落とされた気がしました。
思い描いていた夢、希望がみるみる目の前から崩れていきました。
「この人はまったく私のことをわかっていない!
私が前へ出る人間かそうでないか一番わかってくれていると思っていたのに、私が今まで何も言わず陰で支えてきたことは何だったのか!家庭もめちゃくちゃにして!だったらもういい!」と燃え尽きてしまい、その後主人を憎みました
私は主人を支えたいと心の底から思っていたのにもかかわらず、主人は私が目立ちたいとしか思っていなかった。
そんな風に罵倒されたことがとっても悲しかったんです。
その結果
うつ病を発症してしまいました。
それは3年もの長い間続きます。
ベッドから起き上がられず「もう死んでしまいたい!」とそればかり。
感情もなくなってしまい、自分は何なのか、なにをしてきたのかわからなくなってしまいました。私はもうダメ!ダメな自分は生きていても仕方ない!
薬を多量に飲んでしまい 息子が私の口に指を入れ吐かせてくれました。
当時まだ小学生の息子たちでした。
長男は私が心配で学校を休むと言い出し、次男は遠足だったのか、私がお弁当のスパゲティを水筒に入れていたのを見て自分でお弁当を作っていったという話を聞き 、本当に母親として最低だったと一番の後悔です
このように「自分が我慢すれば」の精神で頑張った結果、良いことはありませんでした。
そんな私の後悔ばかりの辛い過去でしたが心理学を学んだ今は違います。
私は見捨てられ不安が強く、自分を犠牲にして時間とエネルギーをひたすら主人に与え続けてきました。
いわゆる他人軸で生きてきました。
その結果私は燃え尽きて疲れ果て、逆に与え続けられた主人は私のことをあくまでも都合の良いヤツと依存し続け、この二人の関係に「愛」はありません。
ととのえ心理学での性格診断で私は 嫌な顔をしてはいけない、我慢しなくてはならない 典型的な自己犠牲タイプと知りました。
それでは自分の幸せはみつけられません。
心理学を学び「我慢」では人は決して幸せになれない。
ちなみに壺を買ってもだめ、名前を変えてもダメ、拝みにいってもだめ!何かにすがっても幸せにはなれないのです。
大切なことは真剣に自分と向き合い 気づき、覚悟をきめること
私の覚悟はこちらに挙げました
・自分をおもいやる
・伝えたいことは言葉で言う
・時には相手と距離をおく。
・ここまでは許せるがこれ以上はできないという
基準、境界線をつくる。
愛ある良い関係とはお互いがもちつもたれつの関係だと思うのです。
今の主人との関係性を話します。
今私は主人とは良い距離感を保っています。
そのためか少し心に余裕が出てきたのか主人に対しての強い嫌悪感は少しですが薄れてきました。
そして心理学を学んだ今、主人に対してこんな気づきが実はありました。
それは主人も慣れない土地、知り合いもいない、相談もできない、今までとは違った環境におかれ 本当は不安で寂しかったのではないか、、
そんな主人の本来の寂しさ、悲しみ、不安の感情を覆い隠し怒りで表現(いわゆるラケット感情です)私はそんな主人に怯え、甘えてはいけないと思い込み 言いたいことも言えず 余計にその怒りをエスカレートさせてしまった。
主人も本来の本当の気持ち、感情を受け取めてほしかったのではないか、、
お互いに欲しいストロークを求めていたのではないかと気づいたのです。
ストロークとは人が生きて行くために必要な心の栄養になる言葉や身体の接触です。
人間関係の中で100%相手が悪いということはありません。
先ほども触れましたが私は自分の気持ちを抑えることで いつか相手がわかってくれるだろう という期待とファンタジーを勝手に続け 結果、エネルギー不足となり だったらもういい!、どうせわかってくれない!と拒絶の欲求に代わりうつ病発症 という最悪のシナリオをつくりました。
この一連を経験し学んだことは やはり言いたいことがあれば相手を否定せずに自分の気持ちを素直に伝えること、思わせぶりの態度ではなくきちんと言語化する。
そして 相手の話を最後までしっかり聞く、言葉に寄り添う、
その大切な気づきから私は少し心の軌道修正ができました。
最後に ととのえ心理学で学んだ
幸せとは
「自分らしく活き活きと生きる」
決して『あきらめず』に勇気をもって自分の人生を楽しむ
I am not OK だった私からI am OK の私へ
I am OKとは たとえやってきたことが失敗しても誰かに受け入れられなくても 私はOK!「これが私」と思えることです。
そして 私が今伝えたい幸せとは
自然と感謝できること
感謝の気持ちが湧き上がること
です。
この場に立たせていただき、たくさんの方に感謝の気持ちをつたえたい。
まずは 二人の息子たち
生まれてきてくれてありがとう!二人のお陰で刺激的な人生を送っています。そして、私はこれから面白く生きて行くので見守ってほしい暴走した時にはブレーキよろしく
そして、ととのえ心理学で楽しく学ばせていただきました奈美さんはじめ皆さん、自然体の私を受け入れていただき、心から感謝します。ランチも美味しかったね。
先日息子から こんな言葉をもらいました。
「強くなったなあ」と。とてもうれしかった。
過去を振り返ると後悔ばかりがうかんできますが、その後悔が今の私を作っています。
息子たちにとって大切な時期、3年間という悲しい時間に使ってしまいましたが息子たちのお陰で少しずつ母親という実感が戻り立ち直っていくことができました。
本当に後悔ばかりの人生でしたが心理学を学んだ今では過去の後悔という枠組みをプラスの枠組みに変えることができました。
3年間うつ病を発症してしまった後悔も。
大切なのは残りの人生。
まずは大っ嫌いだった自分を許し
ととのえ心理学で学んだことを心の宝物にして
私は 「我が」ままになって大いに自分の人生を楽しもうと思います。
以上で発表を終わります。
ご清聴ありがとうございました。
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