「幸せに生きるとは」
私にとって幸せに生きるとは、コップの水を満たす事。
自分の心を満たす事。
それには、自分らしく活き活きと生きるという事だと確信し、自分で考え、答えを発見する。答えに基づいて行動する。
決して諦めず、勇気をもって自分の人生を楽しむ事が幸せに生きる事で、皆さんに知っていただきたく私の話をさせて頂きます。
生い立ち
私の生い立ちを語る前に、どうしてもお話したいのが、父の生い立ちです。
我が家は、兼業農家で、父親の父、私の祖父は、父が8ヶ月頃出征し、支那事変で戦死しております。第二次世界大戦の終結の6年前となります。
祖母から良く祖父の戦死以降の苦労話を聞かされていました。曾祖父も亡くなっていた事もあり、男性の働き手はいなく、また、戦争で、お米などは全て政府に差し出していた為、農家であっても食べ物も満足に食べられなかった事から、父は、特に体は小さく、大きくなって働いても曾祖母の入院代や治療費にお給料はほとんど消えていったと聞いています。
父は、何も言いませんでしたが、大変苦労したのだと思いました。
私の幼少のころから、両親は、朝早くから夜遅くまで働いていました。土曜日も日曜日もゆっくりと家にいた記憶がありません。家を建て、小屋を建て、蔵を建て、農舎を建て、座敷を建て、訳あって私の中学の頃に、近所の田や山林を購入して欲しいとお願いされ購入する事にもなりました。
父は、いつも出勤前に田んぼの見回りに行って、仕事に行きました。土日は、田や山に出かけていました。母は、サービス業に勤めていましたので、早い日は、朝、5時半か6時頃に出勤していました。職場の送迎バスを利用していましたので、帰宅は早くても6時位でした。両親は、いつも精一杯働いていました。3歳違いの兄と私は、祖母に面倒見てもらっていました。父の帰宅時間は、8時半でしたので、夕飯はいつも9時頃でした。
農繁期は当たり前のように私も手伝います。籾まきというのがあるのですが、600箱くらいの箱に籾をまくのです。母が朝、5時半か6時ごろ出勤して11時頃準備の出来た頃に帰宅します。父と私は、朝6時頃から箱を並べ水を3回程かけ、土に水か浸み込んだら箱を取りやすいように積んでいきます。父と母と祖母と私の4人で籾巻きをしました。兄は、籾巻きはやりません。兄は、田舎の長男という事もあって大切にされていると感じました。
しかし、私の心の中では、
「なぜ私だけ?」「私は、女性だし妹。しかも体も小さく、力もないのに・・・」
「なぜ、母は、朝から仕事休まないの?」「どうして、私だけしんどい思いをしなければならないの?」と
そんな事をずっと思っていましたが、父は一人っ子ですし、特に体の小さい父を不憫に感じ、手伝うのは私しかいないと思って自分の思いを口にする事はなく黙って手伝いました。
母は、サービス業に勤めていましたので、土曜日も日曜日も出勤、GW、お盆、お正月も仕事です。そんな時には、当たり前のように私に家事が回ってきます。廊下や階段の拭き掃除に洗濯、食事の準備など任されます。嫌でもやらなくてはなりません。
高校生3年の大事な2学期の中間テスト期間でした。祖母が、背骨を骨折して1ヶ月半程入院した事があります。私は、自動車学校に通っていたこともあり、帰宅は遅く、平日学校と自動車学校に行き朝晩は家事、母は病院で祖母の看病し、土日は、母が「仕事に行きたい」と言うので、私と交代して母は仕事にいきます。私は、病院で祖母の看病でした。その時も、
「なぜ?母は、仕事を休まないの?」「そんなにまで仕事に行かなくてはいけないの?」クタクタで中間テストの勉強も出来なくて悲惨でした。それでも、母に、嫌だという事は出来ませんでした。
就職と結婚・出産
その後、私が就職して、たまに友達と出かけようとしても、いつも祖母が「何時に帰る?ご飯は作ってくれる?」と聞いてきます。また、父は、アルコールが大好きで、いつも問題を起こしていました。そんな家にいるのが嫌で嫌で、私は、早く結婚しました。しかし、夫は、すぐに、仕事で忙しく毎日深夜に帰宅します。
また、2人の子供を出産しますが、その時も一人で出産しました。付き添は一人もいません。非常に心細く不安でしたが誰も傍には居てくれませんでした。
出産後も実家の農繁期のお手伝いは当たり前のようにありますし、食事作りも私の担当でした。
兄達家族がお盆やお正月に帰省しても、遊びに行って手伝ってはくれません。夕飯が出来た頃に帰ってきます。そうして、新たに仕事が増えます。
夫の実家は自営業で、忙しい土日には、夫に手伝って欲しいと連絡が来て、家族で行って、姪達のお世話や家事が加わりました。もう、私が手伝って欲しいのに嫌ともいえず、する事が増えて、話を聞いて貰えない、言えない、わかって貰えない、手伝ってもらえない、そんなモヤモヤを抱いていると何もしたくなくなってきて、辛くて、しんどくて、悲しくて、食欲もなく、力も入らなくて・・・
思い切って近くの精神科に行きました。うつ病と診断されます。「ゆっくりしていなさい。」と言われるだけで何も変わりません。夫が出勤し、子供たちが登校してからしばらく、寝ていましたが一向によくなりません。起き上がるのも辛かったですが、二男の卒園式や春休み、小学校への入学式、などあって寝てなどいられなくて・・・モヤモヤはしていましたが、誰かに期待したり、頼っても仕方ないと思い、今まで通り、する事にしました。
でも、完全に割り切れたわけではなく、疲れると、私の中に不満がたまります。そして、また、それを押し殺すという堂々巡りをしていました。我慢してほとんど感情がなかったと思います。私は、自分の想いではない事を押し付けられ、言いたい事を我慢して、自分の気持ちを解消できず、ずっと過ごしてきました。
また、夫は、掃除機、ドライヤーなどかけようものなら「うるさい」歌を歌おうものなら「うるさい」と怒鳴られ、夫のいない時に掃除をして、頭を乾かすことも出来ませんでした。母には、定年したら、甘えられる。おいしいご飯を一緒に作ったり、食べたり、一緒に買い物に行ったり、旅行に出かけたり、同じ時間を過ごせることを期待していました。夢を見ていました。でも、そんな事は一向になかったです。
祖母が亡くなった年の初盆の事です。お昼ご飯の事、仕出しは取るのですが、地域で派手にならないようおかずは3品と決められているのです。母は、献立、材料の購入、作るのも全て私に振ってきます。私は、料理をする事が嫌いなのですが断る事は出来ません。仕方なく揚げ物を作っていると、「まぁ~酷い事」。(母は、汚して汚いというのです)私の前で、従姉妹に言っているのです。
母の台所と言えば、食器棚の側面とかタイルの面とか見えるところは、全てサランラップが貼ってあります。グリルは(汚れるので)使った事がなく、調味料も探さないとどこになるのかわからなくて、聞きたいときにはいつも母は、どこにいるのかわからなくて聞くことも出来ず、探して、あったと思ったら、袋を輪ゴムで縛ってあるという状態で、非常に調理し辛く、揚げ物も揚げないので、油きり皿もなく、キッチンペ-パーもなく、仕方なく新聞をしいて揚げ物をしていたのですが、それが汚く見えたのでしょうね!
母は、自称きれい好きです。私にしてみれば、母は、道具はあっても汚れるのが嫌で使いたくない。普段使わないものは袋に入れて包んであるのです。そんな母を異常にさえ思いました。 やりたくない事は、私にまわってくるのだと思いました。自分でしないで、人のあら捜しをする母がすごく嫌でした。嫌でしたが、従姉妹もいるしその場の空気も良くないだろうと思っていう事はありませんでした。そして、いつも私の心の中は、どんより、モヤモヤとしていました。
現在父は86歳。母は83歳です。7年前に両親は、もう、農作業や家の周りの管理が出来ないと両親の希望で、関東に住む兄の家の近くに引っ越していきました。しかも20代近くも続いてきた先祖の大切だと思っていた土地を簡単に処分してしまいました。私は、その土地や家を守るために、自分の時間を犠牲にして、兄をずるいと思いながらも家族のために、小さいころから農家の手伝いや家事、家族の世話をして尽くしてきたのに、もう、何にすがれば良いかわらなくなりました。
その一年後、兄は海外赴任になり、結局、今でも事あるごとに私に連絡が入ります。両親が関東に行っても何も変わる事はありませんでした。私は、父の為、母の為、家の為と思って良かれと思って尽くしてきました。しかし、父からも母からも見返りをもらう事はありませんでした。
私の見返りというのは甘えです。両親に甘える事です。幼少の頃から、いつも両親の顔色を見て、忙しさを見て、「愛されていないのでは・・・」「甘えてはいけないのでは」という思い込みが形成され、甘えらなくなってしまったのです。きっと、良い子を演じる事で親の気を引こうとしていたのです。甘えると親に迷惑をかけるのではと思いブレーキを踏んでしまうのです。甘えられない気持ちをずっと引きずっていました。そして、期待しても無駄とは思っても、まだ、心のどこかで期待をしているのです。堂々巡りの気持ちからどうにか抜け出せないものかとずっとずっと思っていました。
心理学との出会い
そんな時、鈴鹿の中村智恵美さんから奈美先生の講座を教えて頂き、いつもモヤモヤの自分をすっきりさせたい。思い通りの人生を歩みたい。幸せに生きたいと思いました。そのヒントを頂けるのなら、是非、奈美先生の講座を受けたいと思い、実践心理学、カウンセラー養成講座を受けました。
受講して、私は、気が付きました。私は、お母さんからの愛情が欲しかった。心が欲しかった。心遣いが欲しかった。それが、私にとっては、お母さんと一緒過ごしたり、お母さんの作ったものを食べたりしたかった事なのだと気が付きました。お母さんはそんな事は思ってもいなかった。私の気持ちを気づくこともなかったです。私の想いを気づいて貰おうと私は、自分を犠牲にしてまでやってあげたい。やり過ぎとわかっていてもやりたかった。そうして、兄への嫉妬もあったのだとわかりました。
表現ベタな母親と貰いベタな私。奈美先生から、
「お母さんは兄が可愛いが私が可愛くないわけではない」イコールではないと教えて頂きました。私は、母の愛を必死で取りに行っていたのだと気づきました。また、母の気持ちを察する事をしてしまうのですが、同じように母にも、私の気持ちを察して欲しかったのです。母に言わなくても気づいて欲しい、わかって欲しかったのです。
私は、母親に対して「期待とファンタジー」を抱いていたのです。「ファンタジーとは」・・・言わなくてもわかってくれるはず、出来るはず、尊重されるはず、思ってくれるはずと相手に期待して夢を見ている状態。態度にも出して本人はヒントを出しているつもりでいるが、あちらは全く気付いていない。(相手の不快な感情に自分も不快を味わっていく。自分も相手も両方やりあっている状態を言います。)
親子であっても、心の中は、同じではありません。私は、母にIメッセージ、自分の気持ちを伝える事をして来なかったのです。ですから、母が、私の気持ちなどわかるわけがありません。心に思っている事を言葉に出して伝える、言語化する事の大切さを学びました。
また、見方を変える事を心理学では「フォーカスチェンジ」と言います。「フォーカスチェンジ」とは・・・焦点を当てるところを変える。違う方向から見るという事。気になる所、足りない所、欠点、短所、嫌な所、悪い所、駄目な所、あら捜しに目を向けるのではなく、出来ている所、長所、良い所、好きな所、気が付く所、笑える、優しい、癒される、やってくれる、頭がいい所に目を向ける事です。
母は、家の為、家族の為に仕事をしなければならなかったという事。また、私は、祖母に面倒を見て貰っていたけど、本当は、自分で子育てたしたかったのだと聞いたことがあります。母は、母で、自分で、子供を育てたかったという想ういが通らなかったという事に気が付きました。母は、金銭的な問題、姑から逃げたかった、夫婦仲も良くなかったから、仕事に生きて行くしかなかったのだと思います。
私の甘えの欲求
欲求のコップの水を満たすのは、今までやろうと思って出来なかった事をする事で満たされると思っていました。また、母に過去を言っても忘れていて仕方ないと思っていました。しかし、コップの水を満たすためには、欲しい愛情をもらうか本気で諦める事だと教えて頂きました。どちらも私にはハードルが高いです。
奈美先生からは、
完全に割り切る。(したい事をする。断れるようになる。)
自分を大切にする事。気分で決める。
兄にねぎらいの言葉をかけて貰う。
母と一緒に楽しい時間を過ごす。(上手に甘える)
この3択から1つ選んで選択するように言われました。私は①番を選び、今、実践中です。
実践心理学を学んで、断れるようになりましたし、やりたい事を少しずつやっています。
私は、日課で早朝ウオーキングをしていました。それを知った友達が、「一緒にしたい」いうので、彼女の希望時間に合わせてウオーキングをしていたのですが、その友達は、自分の都合で毎日時間が変わるのです。昨日は朝の8時。今日は、昼間の3時という具合で私は、朝から待って3時からはいつものコースを歩けると思ったら、友達は、途中で今日は時間がないからこの辺で帰ると言うのです。それも彼女が折り返したいという直前に言うのです。そういう事がたびたび起こるので、私は、「もう少し歩きたいので」というと、友達は、翌日からコロナを理由に歩かなくなりました。私は、自分の好きな時間に好きなペースで歩けるので気持ちを伝えられてよかったと思っています。
また、以前からやりたかった、ボウリングを始めました。夫が定年した事もあり、何か共通の趣味が出来ないものかと考えていた時に、教室のチラシが目に留まりました。そこで、家から出ない夫を連れ出すによいと思い夫に勧めると、何日かは返事もなくずっと待っていました。申し込み日ギリギリで夫が「行く」というので2人で申し込みました。共通の趣味も出来、少しは会話も出来るようになり、そこで知り合いも出来、今は週に1度のゲームを楽しんでおります。
また、友達から己書の事を聞き一緒にやりたいと思いました。絵や文字をはがきや色紙に書くのです。季節の野菜や花、動物、お地蔵さんなどを描いています。先日は七福神を描きました。自分なりの作品ができて楽しいです。
そして、より深く心理学を学びたい思い、上級スラスとインナーチャイルドを受講中です。
今後の私の目標と言うのは、自分のコップの水、欲求を満たす事。そうして、言いたい事、やりたい事を実行してやりたくない事は断る。そして、自分を大切にして生きていきたいと思います。みなさんも実践心理学を学んで、是非、幸せに生きて欲しいと思います。
ご清聴ありがとうございました。